カメラ付きスマートフォンが普及し始めると、どんな方でも現像コストを気にすることなく、気軽に写真撮影ができるようになりました。それに比例するように、あちこちで高額なデジタルカメラを構えて写真を撮影している方もとても多くなりました。
私自身、フィルムカメラ時代を経ることなく、デジタルカメラの普及とともに、カメラを始めているのですが、そもそもどうして写真を撮影するようになったのか。また、写真に込めたい想いとは。今回は、そんなことを整理したいと思います。
私が撮影する被写体は「自然」です。人を撮影する機会があっても、あくまで「自然の中にいる人」として撮影しています。ではなぜ自然にこだわっているのか。それは小さい頃の原体験にあると思っています。
大都会ではないにしろ、少なからず回りに自然が残されていない街で過ごしていた幼少期。親の帰省で、いわゆる田舎に行く機会が年に何度かありました。そこでは、昆虫を捕まえたり、磯辺の海で泳いだり、畑でみかんをもぎったり、木材で工作したり。こんなこと言ったら怒られてしまうかもしれませんが、家だって昔ながらのお世辞にもきれいとは言えないものでした。それでも、その緩やかで、都会とは違う生活感溢れた雰囲気が大好きでした。
中学、高校と進学していくにつれ、親の帰省に付き合う機会も減り、自然との接点はどんどん薄れていきましたが、卒業後、渡豪してから再度自然との接点が生まれます。そこからは、幼少期には気づかなかった自然のあり方が見えてくるようになりました。それは来道後に自然写真を撮影し始めると、よりマクロからミクロまで見えるようになってきました。
なので、カメラを持つと同時に自然を被写体として決めたのは、きっと必然だったのでしょう。1人で自然の中で佇み、きれいだなとか、面白いな、珍しいななど様々な感覚が共鳴した事柄を撮影していきます。
出来る限り人工物を入れずに写真を撮影していくのですが、自然を写していくということは、自分もヒトなのだけれど、ヒトという生き物が嫌いなのだと、心の根底にはあるのだと思っています。また、誰かと一緒に撮影に行かないのですが、1人でないと、自分の感性を研ぎ澄ますことが難しいからです。
しかし、自然を被写体に選んだのはいいけれど、こちらがどれだけ想いを寄せたとしても、自然は無慈悲であることもまた事実です。大雨が降れば、地震が発生すれば、吹雪が起きれば、災害となってしまいます。だからこそ、慈しみの心や畏敬の念を持って自然に接するというよりも、自然の中での案内や写真撮影ができるように保護と利用を推進していくくらいの気持ちでいることが必要なのだと今は思っています。
それでも、ヒトは自然の一部です。この地球という星が無ければ、今ここにいる自分も含めたヒトは生まれていないのですから、無邪気に想いを寄せる必要は無いけれど、自然との接し方を忘れてはいけないのではないかとも思っています。もちろん、その接し方も人それぞれですし、何が良くて何が悪いのか、時代や文化、生まれてくる国によっても違うでしょうから、一概には分からないけれど、それでも自分が自然の中で活動していく上で思っていることもあります。
なので、私が自然を被写体にして撮影する写真にはどんな想いを込めたらいいのか。芸術的な作品を生み出すために撮影した写真、人が行かない場所へ行って撮影した写真、記録として撮影した写真などを見せて回るのではなく、それらはあくまで手段であり、私が私なりの方法で自然と接してきたことで撮影することができた写真を見てくれた方が、それぞれに自然との接し方を考えてもらえる1つのきっかけになってくれたら…そんな風に考えながら、これからも私は自然写真を撮影していくのでしょう。
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